強いられる選択
直人(♂)
涼子(♀)
??(不問)
直人M:俺は会社を後にし,いつも通り地下鉄に乗った。
この時間でもまだ混んでいる車内。
吊革に片手をぶらさげ,項垂(うなだ)れていた。
一介の研究員に過ぎない俺は,
勝手に上から決め付けられた納期を守る為に,
毎晩遅くまで研究せざるを得ない生活。
直人:はぁ…残るはあの反応だけなんだが…
これで上手くいかなかったらどうしたもんか…
直人M:切羽詰った状況に追い込まれていた俺は,
この頃独り言が多くなった気がする。
そして電車を降り,駅から独り暮らしをしている
アパートまでの帰り道。
??:哀しい人…
直人:え?
直人M:振り返ったが,誰も居ない。空耳だったのだろうか…
疲れが溜まっている所為かもしれない。
気にしたら負けだ…そう思いながら,鍵穴に鍵を差し込んだ。
直人:あれ? 開いてる?
おーい,居るのかー?
直人M:部屋に上がり,灯(あか)りを点けると,テーブルには食事が在った。
椅子に座る。
直人:涼子,来てたのか…
直人M:徐(おもむろ)に携帯を取り出す。
涼子からメールが届いていたことに気がついた。
涼子(メール):久々にゆっくり出来ると思ったから,
そっちに行って夕飯作って待ってようとしてたら,
急な呼び出しがあって。
また後で連絡するね。
直人:呼び出し…か。忙しいな…
直人M:涼子はしょっちゅう呼び出しがかかる。
だが,それは仕方のないことだ。
なんせ,彼女は『医者』なのだから。
直人:メールを返さないと。
直人M:ちらりと壁に掛かっている白衣を見やる。
俺が就職して上京した時に貰ったものだ。
何故医者でもない俺の部屋に『医者用の』白衣があるのか。
それは,俺が未だ大学院生の頃の話にまで遡る。
◇3年前
直人M:学会で偶々(たまたま)上京していた俺は,
当時付き合っていた涼子の研究室に行くことになった。
そう,遠距離恋愛だったのだ。
涼子:いらっしゃい。ここが,私の研究室よ。
直人:思ったよりグロくないな。
涼子:グロいって何よ。言ってるでしょ? 私は『放射線科医』だって。
画像診断がメインなんだから,そういった機械が大半。
血なんて見ることないわよ。当直のとき以外はね。
直人:当直ねぇ…
涼子:こればっかりは仕方ないのよ。
普段は画像診断ばかりでも,当直の時は違う。
外科的な事もすることはあるの。
直人:医者っていうと,どうしても『血』のイメージがあるから,
医学部に行くことを諦めてたんだけど…
涼子:血を見なくても済む『科』があるのを知った…と。
直人:そう。
涼子:直人くん,血が苦手って言ってたもんね。
直人:うるせぇ…
涼子:ふふ…
直人:もしそれを知っていれば,医学部に進学してたかもしれなかったよ。
実習と研修さえ耐えたら,血から解放されるわけだし。
涼子:来れば良かったのに。
直人:知らなかったんだから,選択肢になかったし。
涼子:まぁ…世間一般的には,血を見るイメージだし,
仕方ないのかなぁ。
直人:そういうこと。
それに,完全に血から解放されるわけじゃないしね。
当直とかあるわけだし。
涼子:宿命…かしら。
直人:そんな宿命は背負いたくないな。
涼子:そっかー。残念。
直人:今から医学部に入りなおすのも面倒だし。
涼子:編入も出来なくはないのよ?
直人:へー。
涼子:それに,直人くんくらいの歳で医学部に入学,なんてのはザラだし。
直人:今から大学受験の勉強をし直すつもりもないよ。
古典とかもうさっぱりだし。
涼子:確かに,また覚え直すの面倒だもんね。
直人:そういうこと。
涼子:あ,そうだ。この白衣,着てみない?
直人:白衣なら,普段着てるけど?
涼子:『医者用』ってのがあるのは,知ってるでしょ?
直人:まぁ…
涼子:だから,これをちょっと着てみて。
直人:はいはい…分かりましたよ。
◇
涼子:あー! なんか私より医者っぽい! なんか悔しい!
直人:意味解んないし…って,ちょっと! 勝手にデジカメで撮らない!
◇(回想終了)
直人M:未だに俺の方が白衣が似合っている事を根に持っている彼女は,
俺が就職して上京した時に,プレゼントしてくれたのだ。
直人:さっさと仕舞い込めばいいのになぁ…なんで飾ってるんだろ。
??:どうしてだろう。
直人:え?
直人M:俺は驚愕した。
目の前には,俺と瓜二つの姿をした人が佇んでいたからだ。
直人:お前は一体
??:(割り込むように)夜道での言葉は届いた?
直人:夜道での?
(少々考え込み)もしかして『哀しい人』ってやつか?
??:こっち…
直人:あ,ちょっと待てよ! そっちは玄関だ。外出しろってか!?
直人M:俺は追いかけようと立ち上がり、玄関に向かおうとした。
その時,ドアが開いた。
涼子:ご飯食べてくれた?
って,ノックもしてないのにお出迎えなんて,ある意味凄いわね。
直人:あ…れ? 消えた!?
涼子:消えたって,何が? あ,ご飯は食べてくれたんだね。
直人:あ…うん。いやさ,さっきまで俺が此処に。
涼子:え? どういう意味?
此処は貴方の部屋なんだから,居て当然じゃない。
直人:そうじゃなくて,俺のそっくりさん。
なんていうか…ドッペルゲンガーみたいな?
涼子:まさか。それは医学的には自己像幻視(げんし)で,
脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域に脳腫瘍(しゅよう)ができた患者が
自己像幻視を見るケースが多いのよ。
この領域は,ボディーイメージを司ると考えられてて,
機能が損なわれると,自己の肉体の認識上の感覚を失って,
あたかも肉体とは別の『もう一人の自分』が存在するかのように
錯覚することがあると言われているの。
直人:流石医者。
涼子:伊達に専門じゃないわよ。
今度MRI撮ってみない?
直人:俺を実験台にしないで欲しい。
涼子:あら,だって見てみたいじゃない?
直人:勘弁してくれ…
今日はこれからどうすんだ? 泊まってくか?
涼子:そうねぇ,明日は休みだし,そうさせて貰おうかな。
直人:俺も納期迫ってるけど,休日出勤する気はないからな。
涼子:そっか。
なんか久々だね,こうして二人でゆっくり過ごすの。
直人:そうだな。
涼子:何しようか。
直人:んじゃ,ゲームでもすっか。
涼子:オッケー!
直人M:こうして俺と涼子はゲームをして,その後眠りに就いた。
◇
直人M:深夜。ふと目を覚ますと,
そこには,さっきの『奴』が居た。
直人:お前は…
??:見せたいものがある。
直人:見せたいもの?
??:彼女にも。
直人:え?
涼子:ん…寝言? どうしたの?
直人:あ,涼子。
涼子:起きてたんだ。じゃぁ独り言だったのかな…って…え!?
直人くんがもう一人!?
直人:さっき話しただろ? やっぱりあれは幻覚なんかじゃなかったんだよ!
涼子:そんな…まさか…!
??:そう…こうしなければ…
直人:どうなるって言うんだよ!
??:真実を知る事が,必ずしも人を幸福にするとは限らない。
寧ろ,不幸にしてしまうこともある。
でも,時として,真実の方が近付いてくることもある。
直人:矛盾してねぇか?
涼子:どういうこと?
直人:こいつ,さっきは『見せたいものがある』って言ったのに,
今度はこの台詞。おかしくないか?
涼子:もしかして,貴方…
??:自分の目で確かめて,決断をして欲しい。
直人:決断…
??:そう,選択するしかないんだ。
無理強いさせているようで申し訳ないけど。
涼子:なんでそんなことをさせるの?
どうして貴方が居て,直人くんに決断させようとするの?
??:どちらにするかは君次第。これを見て。
直人M:周囲の景色が一変した。
直人:此処は…俺の良く知っている場所…
涼子:直人くん,あれ!
直人:涼子にも見えてんのか。
涼子:うん…あれって…直人くんじゃない?
直人:あ…ああ…
涼子:酷い怪我…応急処置しないと! って…あれは…私!?
どうして私があそこに居るの!?
直人:俺に訊くなよ…
涼子:私が泣き崩れてる…ってことは…
??:そう,死んだんだ。
涼子:え…
??:代わりに。
涼子:それって…
??:字義どおり。
直人:つまり,庇かばったと。
??:そう。
直人:この光景を俺に見せて,どうしようっていうんだ。
??:さっきも言ったとおり,選んで欲しい。
どちらかしか,助からない。
涼子:私を庇って直人くんが死ぬか,それとも私が死ぬか…ってこと?
??:そう。
涼子:それを彼に選ばせようって言うの!?
??:だったら貴女が選ぶ? 不可能ではないと思うけど。
涼子:私が? 私だったら…
直人:こいつの言うことに,耳を傾けるな!
お前は一体何者なんだ。
??:さぁ…どっちだろう。
直人:どっち?
??:俺を定義できるのは,君しか居ない。
厳密に言えば『君たち』になるのかな? 一応。
涼子:私にも僅かながら『選択権』があるから,
『たち』って表現になるってことね。
??:さすが,理解が早い。
涼子:………。
直人:どうした?
涼子:彼の正体が,なんとなく判った気がするの。
直人:ホントかよ!
涼子:うん。医者である私が,
こういうのもおかしいかもしれないけど,彼は…
??:無駄話はそこまで。
さっきの光景は,今から8時間後。
それまでによく考えて選んで欲しいんだ。
涼子:もう,二度と姿は現さないってこと? 直人くんの前にすら。
??:そう。俺は実在の世界には,
僅かな時間しか干渉する事ができないから。
じゃあ,そろそろ行く。
涼子:ちょっと! 待って!
直人:言いたいことだけ言って,それで消えるのかよ!
??:………。
涼子:消え…ちゃった…
◇
直人:!! 此処は…俺の部屋!?
涼子:みたいね。
直人:それにしても…あいつの正体って一体…
涼子:『どっちだろう』って言ってたわよね?
直人:ああ。それが鍵なのか?
涼子:うん。そして,未来のビジョンを見せたわけでしょ?
直人:『実在の世界への干渉』がどーたらとも言ってたな。
涼子:彼は精神体なのよ。肉体というものを持たない存在。
だからこそ,時間も超越することができるんだと思う。
昔,何かで読んだ記憶があるんだけど,
時間が拘束するのは質量を持った物だけらしいの。
うろ覚えだし,それが正しいかなんて実証もされてないけど。
直人:それと,『どっち』ってのとどういう関係があるんだよ。
涼子:彼は…『貴方自身』もしくは『貴方の子供』よ。
直人:え? それってどういう…
涼子:黙っててごめんなさい…
実は,この前検診してみたら,2か月ってことが判って…
直人:それって…
涼子:そう。私達の子供。
直人:知らなかった…
涼子:それは私が言わなかったから…
直人:でも,それとさっきの事って…
!! そういうことか!
涼子:うん。もし直人くんが死ぬとしたら,彼は子供ってことになるの。
そして,逆に私が死ぬとしたら,彼は貴方自身。
直人:でも…子供だとして,なんで精神体の状態なんだ?
まさか,子供まで死んじまうってことか?
涼子:そこまでは解らないわ。
ただ,どっちかって事だけは確かだと思う。
直人:俺が…選ぶしかないのか?
涼子:私にも選択権がないわけじゃないみたいだけど,
そこまでの大きな裁量権はなさそう。
あるとすれば…
直人:おい! まさか…
涼子:うん…お腹の子供を…
直人:止めろ!
涼子:私だってそんなこと,したくないわよ!
でも,貴方に選択を強いるのも厭いやなの。
きっとね,それ以外については私にはどうしようもないんだと思う。
どれだけ注意しようとしても,私は事故に巻き込まれてしまう。
だから,直人くんが私を庇うか庇わないかを選ばなきゃならないの。
そんなの耐えられない…
直人:…俺は選ぶよ。もう…決めたんだ。
涼子:私を残して逝くつもりなんでしょ。
直人:………。
涼子:そんなの厭!
直人:でも! 俺だって涼子を失いたくはないんだ!
庇える事が解ってて,それでも庇う事をしないで,
自分だけ生きるなんて,そんなことできるわけないじゃないか!
そんなの…哀しすぎる…
涼子:………。
直人:だからか。
涼子:え?
直人:あいつが最初に俺に声を掛けた時の台詞。
涼子:なんて言ってたの?
直人:『哀しい人』だ。
涼子:そんなこと言ってたの…
直人:でも俺は…
涼子:ねぇ…ちょっと頭冷やすために,一眠りしない?
このまま起きていても,たぶん…
直人:そう…だな…
◇
??:未来は定められたものじゃない。
行動如何(いかん)によっては,新たな俺が生まれるかもしれない。
どうなるかは,蓋を開けてみないことには判らない。
どんな選択をするのだろうか。
願わくば,第三の俺が生まれる事を願ってるよ…